「今日も順調に苦労しています」
北海道医療大学看護福祉学部 特任教授
社会福祉法人浦河べてるの家 理事長 向谷地 生良 氏
1978年より総合病院浦河赤十字病院医療社会事業部のソーシャルワーカーとして勤務し、翌年から精神障害のあるメンバーと共に古い教会堂を拠点として共同生活を開始。1984年「浦河べてるの家」(以下べてる)を設立し、「当事者研究」(2001)を創案。現在は、べてるの運営と北海道医療大学(2003~)で教鞭をとりながら、「当事者研究」の普及をめざして全国を飛び回っています。
今回は「当事者研究」を通した労働者協同組合との関わりの中で、協同労働に感じる可能性について語っていただきました。
協同労働との出会いは
精神科のソーシャルワーカーとして統合失調症、うつ病、アルコール依存症などさまざまな精神疾患をかかえ生活に生きづまりをかかえる人たちと出会う中で、大事な気づきがありました。それは、「こころの病」からの回復には、人と人、そして家族や社会も含めた環境が大きく影響しているということです。ですから、薬(医療)だけで治療するのではなく、人との関わりの中で互いに大切なものを取り戻していく「関係とつながりの回復」が大事なのではないか、それも、治療の現場が重視する眠れないといえば眠剤、不安だと言えば抗不安薬が用いられるような回復ではなく、時には、避けて通れない人とのぶつかり合いや、日常の生きる苦労のプロセスの中にこそ、本当の回復があるのではないかと考えるようになりました。それは「和解」と「生きる苦労の取り戻し」のプロセスということができます。
その頃、「べてる」のメンバーが病院の営繕課の課長さんのご厚意で営繕のアルバイトを始めたことを機に、20人ほどでお金を出し合い「有限会社福祉ショップべてる」を立ち上げて、やがて病院の敷地管理の仕事を始めて、私たちは一緒に働くことを通じて「つながりの回復」を一貫して模索し続けました。
当時は協同労働という言葉を知る由もありませんでしたが、今思えばあれはまさに「協同労働」の模索がはじまったのです。
労働者協同組合からお声がけいただいたのは「べてるの家の非援助論」(医学書院2002年)が出版された頃だったと思います。私は、協同労働を知ることによって、地域の中で、様々な課題に直面しながらも、働く人が主人公になって、それらの課題を担う主体となることを目指す取り組みに希望を感じ、励まされた思いがしました。それは、良い、悪い、成功、失敗という単純に白黒で物事を考えるのではなく、ダメなことも良いかもしれないし、もしかしたら良いことがダメな場合もある、そんな複雑で、多様性の中で、すべての人が大切にされながら一緒に働く。そして、何よりも、どんな失敗や生きづまりの経験も、いつか、誰かの役に立って、用いられるかもしれないという世界を模索してきた私たちにとって協同労働の実践は、宝物みたいなものでした。
協同労働は対話的労働!
「対話」とはなんでしょう。私は、違う人同士がどう共に生きるかを互いに模索し、考え、それを実践し、互いに生きやすい場をつくるプロセスだと思います。そういう意味で、協同労働のプロセスそのものが「対話的労働」だと考えています。みんなが同じ考えや姿勢になることを目指していくのではなく、ぶつかり合いや違いの顕在化も必要なプロセスとして受容し、意味において協同する。そして、その結果に謙虚に学びながら、いろいろと改善や軌道修正を重ねるプロセスこそが協同の本質だと思います。協同労働は対話的労働であり、今一番必要とされているものです。
その「違い」が単なる対立で終わるのではなく、そこから助け合いが生まれ、新たな発想を生み出す契機ともなるために必要な“触媒”が、私は「弱さの情報公開」だと思っています。自分の困りごと、気づいたことなどを“大切な情報”として場に発信することによって、ぶつかり合いながらも、なにか不思議な配慮やマナーというか、気遣いが生まれてきます。その中で互いに自分自身の情報発信をし、良かった事、苦労したこと、さらに良くする点をワイワイ語り合う。そこで自ずと「対話の文化」というか、「一つのわきまえ」が生まれてきたと感じます。これは協同労働の経験と近いものかもしれません。
本気を試された10年
「べてる」の船出は、お酒が止まらなかったり、メンタルな不調による対人関係のトラブルや生きづまりによって孤立を経験した若者たちが、その経験を活かして仲間と一緒に「地域に貢献する」という「妄想的な理念」が始まりです。浦河の地域には「7病棟あがり」という言葉があります。もちろん、いい意味では使われていません。その「7病棟あがり」の若者たちが、なるべくこっそりと、しかし、志しは高く、事業を始めました。勿論、当初は、精神病棟に出入りしている人たちが変なことをやっている、と、職場や地域の人たちからも距離を置かれていましたが、その途中で、仲の良かったドクターと私が一緒に精神科チームから出禁になり、私は、事務の“窓際”に配置替(1984)えとなりましたが、10年に及ぶ試練の時を通じて、私はメンバーに支えられ、鍛えられ、本気を試された大事な時間だったのだと思います。そのことを通じて、私たちは、浦河の地域で、苦労を重ねている商店街の人たちと出会うことができました。そこから新しいつながりができ、応援され、見出されて、現在があります。
浦河での45年を振り返ると、人口も半減し(2万人→1万人)、商店街も寂しくなりました。そこに、コロナ禍が直撃し、地域はさらなる苦境に陥っています。しかし、今まで、地域の人とは別の空間で活動しているような距離感があったのですが、コロナ禍によって、みんなが弱者になることで、振り向いたらみんながいる、みんなが同じ目線にいるという感じが持てるようになりました。いい意味で地域の課題が煮詰まってきたのだと思います。
協同労働×当事者研究
若者たちとは経営状況や方針の共有を大切にしています。うまくいったことも失敗したことも共有し、相談し合ったり行き詰ったり、新しいことにチャレンジしたり、協同性を大事にしてきました。そのプロセスこそがまさに、日々の協同研究の場だったわけです。
当事者研究は、マニュアルや定式化された方法があるわけではありません。さまざまな障害者や社会的な困難を強いられる病を経験した人たちの回復のプロセスや知恵に学び、それを手掛かりに私自身が生きる場を拓こうとする対話実践です。そのプロセスと協同労働の歩みは、重なり合うところが多く、そこに対話実践として協同労働の可能性を感じています。研究という枠組みの中で経験を重ねることにより、その行き詰りや失敗が活かされ、様々な個性が活力を生み、新しい発想につながることを学んできました。
私自身が当事者研究の活動を続ける中で、心がけてきたのは、身近なところで見えざる苦労をしている人、私たちの日常の視界から見えにくくなっている人の声を拾い、その経験に学ぶことです。そして、何よりも大切なのが、「当事者としての自分」に関心を向けることです。自分自身の声無き声に耳を傾け、自らをケアすることに心を砕くことです。それは、みんなが自分の当事者になることと、リサーチャーになることを意味します。
それぞれが協同労働の現場で、人と地域の課題を働くことを通じて研究する仕組みが生まれ、無数の工夫と前向きな生きにくさが共有され、それが仲間の経験と融合することによって新たな実践知として現場に循環するプロセスが生まれること願っています。月1回、当事者研究を行っている北海道の協同労働の事業所では、地域から様々な苦労人が集まります。子どもや家族を対象とした当事者研究も始めています。私たちが子どもという言葉を使うとき、「子どもっぽい」とか「子どもじゃあるまいし」とか、子どもは大人に比べて未熟で非常に拙い存在として扱われることが多い気がしますが、子どもは子どもとしてもう既に十分な存在なのです。大人こそ、子どもに学ばなくてはいけません。不登校の子どもと当事者研究を始めると、大人が忘れている大切なものを子どもがちゃんと持っている。なのに、大人になるにつれ、大人の顔色をうかがうことで豊かな感性にふたをして周りの大人に合わせていってしまうのではないかと感じています。
協同労働に対して期待すること
労働者協同組合の法制化は社会の現実とリンクしている気がします。それ故に、協同労働の理念の広がりは、様々な領域の市民の活動が協同労働的になる可能性があると考えています。協同労働は、対話的な働きを通じて、前向きにみんながぶつかり、擦れ合うことによって、互いが互いを知り、それが地域課題の解消に向けた知と経験の創造を促す可能性をもっています。そして、「研究する」という発想は、矛盾と不確かさに満ちたプロセスに機嫌よく留まることを可能にします。そのことによって、私たち自身が、私たちが生活している中にある様々な地域の課題の担い手になり、かつ、そこで働くことを通して地域の課題が解決し、解消していく。地域の人材も生かされて見違えていく、それが可能になると思っています。
最後に、地域に生きる私たちが、一人の市民として地域に責任と役割を持つことを前提として構成されている日本という社会は、その基本において市民の「協同」を想定し営まれている社会であると言うことができると思います。それは、戦後の日本社会が忘れてきた一番大切なものかもしれません。
向谷地生良 氏 プロフィール
1955年青森県生まれ。北海道医療大学看護福祉学部特任教授、浦河べてるの家理事長。ソーシャルワーカー。当事者研究、精神障害者リハビリテーションを研究分野とし、1984年に北海道浦河町で精神障害などをもつ当事者の活動拠点「浦河べてるの家」を設立。当事者研究を創始し、普及に努めている。